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第5回 藤澤 智光(次世代構造解析グループ)いつも夢中でテーマを追い続けてしまう。意外にロマンチストなんです。
 藤澤研究員のプロフィール


今回は、次世代構造解析グループにおいて、現象が複雑で解析が困難とされる諸現象の構造解析を進めるためのプログラム作りに取り組んでいる、生産技術研究所の藤澤智光研究員にお話をうかがいました。

■まず藤澤さんのご出身地、少年時代の様子など、その経歴をお聞かせください。

 僕は1974年、この生産技術研究所の敷地から徒歩30秒の地に生まれました。そして今も、この地で暮らしています。小学生時代の僕は、レゴというブロックで遊んだり、子ども向け雑誌に付いてくる付録の模型、あるいはNゲージの鉄道の模型で遊んだりと、頭も手も使えるというような遊びに熱中していました。

 それに、父が瀬戸大橋のような建造物を作る土木設計の専門家だった関係で、我が家にはまだ初期の時代のパソコンが置いてあった。だから、僕はパソコン雑誌を買ってきて、そこに掲載されていた機械語で書かれているプログラムをセッセとキーボードから打ち込んでいました。当時はまだ8ビット機が全盛の時代だったので、今よりハードウェアの構造がよく見えて、あの頃はなかなかに良い時代でしたねえ(笑)。

 中学校は地元の区立に進み、パソコン部に入りました。クラブ指導担当で理科の中川先生が、僕がBASICのプログラムなら少しぐらいは組めるということを聞きつけて、放課後に、初歩の解析学、つまり関数論とか微分積分などを個人指導してくださったんです。もっとも、当時の僕があまりにもパソコンにはまってしまっていたので、中川先生から「君はもうコンピュータの勉強はしなくていい。数学をやりなさい。将来はコンピュータ関係の仕事に就くのはやめなさい」と言われてしまいました(笑)。今から思えば、それは1年や2年ですぐ変わってしまうような目先の技術ではなく、10年、20年とずっと変わらない本質的なものの勉強をやりなさいというサジェスチョンだったんですね。

 高校は都立の戸山高校に入りました。この高校には、桑島先生という社会の素晴らしい先生がいらっしゃったので、僕は理科大好き人間から、一気に社会大好き人間に変身。世界の歴史というものが、それぞれ密接に組み合わさって形成され、それがダイナミックに動いていくということに大きな感動を覚えるようになっていたんです。高校3年生のとき、僕は賛同してくれた友人と一緒になって「理科系のための世界史研究会」というものを立ち上げ、数学よりよっぽどまじめに勉強していました。僕の性格は単純。他人の意見にとっても影響されやすいんです(笑)。

■藤澤さんはその後、大学、そして大学院へと進んでいかれましたが、そこではどのような勉強をなさっていたのかをお聞かせください。

 僕は早稲田大学の理工学部で機械工学を学び、大学院で機械工学の修士課程を終了しました。次に、東大に移って、工学系研究科システム量子工学専攻の矢川元基先生のご指導を受けて工学博士号を取得しました。

 これ、そこそこ立派な経歴に見えるかもしれない。でも、実態は立派とはほど遠い(笑)。僕は高校生時代に純文学にも憧れ、人間というものを探求したいと思いつめるようになっていました。僕は中国の詩、特に南北朝時代の詩の勉強がやりたかったので桜美林大学を受験し、そこの中国文学科の試験にも合格していたんですよ。結局、早稲田の理工学部に入ったのだって、ニ浪してから後のことですしね。

 で、僕は唐詩を勉強することが諦め切れなくて、早稲田の文学部に李白の大家の松浦友久先生がいらっしゃったので、手紙を出したら、すぐに電話がかかってきて、学部の4年間と修士の2年間、その先生の研究室で他の中国文学科の学生さんたちに混じって輪講に参加していました。いわゆる「白文」を中国語の発音で読んでいくんです。めっちゃ楽しかったですよ。しかし、この松浦先生、つい先日、お亡くなりになりました。あぁ、もう先生の講義を聞くことは永久にできないんだ。心にぽっかり穴が開くとはこのことかと思うくらい、ショックでした。泣きましたね。

 ところで、僕は小学生時代にフルートを習い始め、高校生時代には吹奏楽部に入部したというように、けっこう音楽に寄り添った生活を送ってきました。また、早稲田のオーケストラ部に入り、どうしてもやりたかったバイオリンをゼロから始めて、授業をさぼって1日10時間とか練習していました。バイオリンを教えてくれたのは僕の高校時代からの友人で、後に芸大に進んだ男なんですが、レッスン代は払っていませんでした。

 で、この友人がアルバイトとして働いていた楽器店で、たまたま友人と同じバイオリン講師をしていたのが矢川先生の奥さんだったんです。そして、奥さんが主催されている発表会で僕も何回か弾かせてもらっているうちに、チェロを弾く矢川先生に知り合うことになり、その先生から「東大に来ないか?」と声をかけていただくことになったんです。だから、僕は「バイオリンをやって東大の大学院に進んでいった男」と呼ばれているんです。芸は身を助くって、本当ですよ(笑)。

 あっ、そうだ。少しは勉強の話をしなければいけませんね。実は、僕のホームページが大学院時代の矢川研究室のサーバーに置いてあります。そして、ここでは少しまじめに仕事の話をしていますので、時間のある方はちょっとのぞいてみてください。ただし、このホームページに書いてあることは僕の個人的な研究テーマであり、この生産技術実研究所での研究テーマとは微妙にズレているところもありますので、そのへんのことをちょっと頭に入れて読んでみてください。

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