僕は1974年、この生産技術研究所の敷地から徒歩30秒の地に生まれました。そして今も、この地で暮らしています。小学生時代の僕は、レゴというブロックで遊んだり、子ども向け雑誌に付いてくる付録の模型、あるいはNゲージの鉄道の模型で遊んだりと、頭も手も使えるというような遊びに熱中していました。
それに、父が瀬戸大橋のような建造物を作る土木設計の専門家だった関係で、我が家にはまだ初期の時代のパソコンが置いてあった。だから、僕はパソコン雑誌を買ってきて、そこに掲載されていた機械語で書かれているプログラムをセッセとキーボードから打ち込んでいました。当時はまだ8ビット機が全盛の時代だったので、今よりハードウェアの構造がよく見えて、あの頃はなかなかに良い時代でしたねえ(笑)。
中学校は地元の区立に進み、パソコン部に入りました。クラブ指導担当で理科の中川先生が、僕がBASICのプログラムなら少しぐらいは組めるということを聞きつけて、放課後に、初歩の解析学、つまり関数論とか微分積分などを個人指導してくださったんです。もっとも、当時の僕があまりにもパソコンにはまってしまっていたので、中川先生から「君はもうコンピュータの勉強はしなくていい。数学をやりなさい。将来はコンピュータ関係の仕事に就くのはやめなさい」と言われてしまいました(笑)。今から思えば、それは1年や2年ですぐ変わってしまうような目先の技術ではなく、10年、20年とずっと変わらない本質的なものの勉強をやりなさいというサジェスチョンだったんですね。
高校は都立の戸山高校に入りました。この高校には、桑島先生という社会の素晴らしい先生がいらっしゃったので、僕は理科大好き人間から、一気に社会大好き人間に変身。世界の歴史というものが、それぞれ密接に組み合わさって形成され、それがダイナミックに動いていくということに大きな感動を覚えるようになっていたんです。高校3年生のとき、僕は賛同してくれた友人と一緒になって「理科系のための世界史研究会」というものを立ち上げ、数学よりよっぽどまじめに勉強していました。僕の性格は単純。他人の意見にとっても影響されやすいんです(笑)。
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